時間の使い方を考える

 時間は、全ての人々に等しく与えられた資源です。ある人にとっての1時間は、またある人にとっての1時間でもあります。時間の使い方は人それぞれですし、どんな使い方をしようとも、それはその人にとっての価値のある時間の使い方であると言えます。

 時間の使い方が、ある人にとっては無為と思えるものでも、ある人にとっては有意義であるということもあります。たとえば、学校の勉強に時間を掛ける、ということは、多くの人にとってその後の利益となるため、有意義であると言えるかもしれません。しかし、学校の勉強など無意味である、とする人もいるわけです。幼少の頃から既に個別の才能を持ち、大成している人は世の中にも大勢います。その人たちにとっては、学校の勉強よりも、その才能を伸ばすことこそが真に有意義な時間の使い方なのかもしれません。

 あるいは、時間を趣味に費やすことは、将来に繋がらないから愚かなことだ、と言う人もいるかもしれません。しかし、人生の目的もまた人それぞれだということです。富や名声を得るのが目的だという人もいれば、とにかく空き時間を趣味に費やしたい、という人もいるかもしれません。どちらも立派な生きる目的です。

 さて、我々ITエンジニアは、こと時間の使い方についてはシビアな面があります。突き詰めれば、それがITエンジニアの存在価値のひとつだからです。テクノロジーの力によって世の中を便利にしていく。それは、現代に生きる人の時間の使い方を改善するのに一役買っています。

 たとえば、昔の情報ソースは新聞やテレビのニュースでした。新聞は配達されなければ情報が入ってきませんし、テレビはそれが放映される時間、自分の時間が拘束されてしまうことになります。現代はスマートフォンやパソコンなどの端末を使えば、新聞は配達される、という時間をカットできますし、テレビはいつでも必要なときに必要な情報を得ることができるようになりました。

 そんな中で、時間の価値はどんどん上がってきているように思います。会社のミーティングにしてもそうですが、可能な限り無駄を排除し、上手く利益を得ることができるように工夫するようになりました。あらゆる時間を効率化するテクノロジーが発達した結果、時間の効率化を追い求める、結果、現代人は余裕が無い、などと言われるようになっています。

 テクノロジーの発達によって、逆に現代人に時間的な余裕は生まれているはずです。現代人に余裕がない、という言葉の真意は、時間の価値が上がることによって、他者との競争が熾烈化していることにあるのでしょう。時間を有効活用しなければ、優位に立てない。そういった心理的な余裕の無さを表現しているのでしょう。

先行投資という考え方

 お金の投資、という考え方は浸透していますが、時間の投資、という考え方は未だに比較的軽視されがちなのではないでしょうか。投資は、利回りやキャッシュフローを意識し、何年で損益分岐点が訪れるかなどを検討し、投資することを決めます。時間も同じことで、先行投資した結果、大きな利益が生まれる、ということが起こります。

 ITエンジニアリングで言えば、テスト自動化はとてもコストが掛かることで、最初のうちは手動でやってしまったほうが早いことが多いです。しかし、そこに投資を続けていれば、多くの場合損益分岐点が訪れます。

 ただし、投資する対象物がお金であろうと時間であろうと、正しく判断するべきなのは変わりません。ときには、先行投資すべきことが自明であるにも関わらず、様々な理由でそれを諦めざるを得ないときもあります。時間、お金に関わらず、はっきりとメリット・デメリットを見極め、投資すべきかの意思決定を行うことは何よりも大切です。

 投資すべきことが誰の目に見ても明らかであるにも関わらず、投資をしないという判断をすることもあります。それには大きな理由があるのかもしれません。

時間とお金

 ”Time is money”ということわざがあるとおり、時間とお金は親和性が高いと考えられます。身近な例で言えば、「時給」などが、お金と時間の関係性を示しています。

 つまり、時間は換金性があるということです。お金を得るには、多くの場合時間を使う必要があります。そして、時間は有限であるということを意識しなければなりません。1時間をいくらで売るか。いくらで買うか。ここをしっかり考えます。

 時給1,000円で40時間働いて得られるお金と、時給2,000円で20時間働いて得られるお金は、お金だけに着目すれば等価です。ですが、20時間も自由に使える時間が残る点、明らかに後者のほうが優れていると言えます。当たり前のことですが、時間という点に焦点を当てると、違うものが見えてきます。

 しかし、逆も然りです。時間をお金で買う側は、払ったお金以上の成果を求めることでしょう。でなければ、赤字になってしまうだけですから、シビアに損益を計算しなければなりません。

 必ずしも、提示される金額が、その人の価値を示しているわけではありません。先に述べたように、雇う側の損益によるのです。それはビジネスモデルだったり、ビジネスの規模であったり、様々です。収益性の高い業務に対しては、雇われる人の能力に比べて高い金額を示されることもありますし、逆に、とんでもない能力を持っている人が薄給で働いている、という状況もありえます。

 ただ、そこは交渉し、納得できなければ契約しなければ良いだけの話です。あるいは、お金以上のなにかに惹かれることがあるかもしれません。趣味で手伝う、ということもあります。ともすれば、時間をすべてお金と関連させて考えることはあまり健全ではないのかもしれません。

無駄を楽しむ

 ともすれば時間は価値のあることに使わねばならない、と思ってしまうかもしれません。確かにそれは間違っていません。しかし、価値は人それぞれであるということも、また事実です。

 「海を眺めながらのんびり過ごす」という時間も、ある人にとっては非常に有意義な時間ですが、ある人にとっては非常に無駄な時間かもしれません。「ゲームをする」とか、「映画を見る」などの趣味や娯楽も同様です。

 それは無駄という言葉の定義や価値を、人それぞれが異なる認識をしているからに他なりません。将来に繋がらないことはすべて無駄であるという考え方もありますし、趣味や娯楽で自己を充足させることが本当に価値のあることだ、という考え方もあります。双方とも、ことさらに否定されるべきものではありません。

 真に無駄なことなど、ほとんど存在しないということです。

 ですが、その時間が苦痛を伴うもので、かつ将来に渡って何も生み出さない、というのなら、出来るだけその時間を短くすることを考えるべきです。身近な例で言えば、食洗機を導入するか検討することがあります。1日3回、1回あたり30分を食器洗いに費やしているとすると、それが1回あたり10分に短縮できるのであれば、1ヶ月あたり30時間もの時間の節約になります。

 先程、時間には換金性があると述べましたが、時給を1,000円と置いてみると、数ヶ月もあれば導入費用やランニングコストを償却でき、時間の余裕が増えるわけですから、価値のある判断だと言えます。

 もちろん、判断軸はお金だけではありませんから、どのような決定を下したとしても、それは尊重されるべきです。

まとめ

 時間は当然に与えられ、当然に消費されていきます。貯めることも、使う量を調節することもできません。我々に与えられているのは、ただそれをどう使うか、の一点だけに過ぎません。

 後悔しないような時間の使い方を、また、自分自身の時間の使い方に、もう少し寛容さを与えてみても良い気がします。